豊島将之棋聖が誕生!初タイトル獲得でついにタイトル保持者の仲間入り

豊島将之八段がついにやりましたね。やっと、本当にやっと棋聖戦のタイトルを獲得して、ついにタイトル保持者の仲間入りを果たしましたね。これだけすごい成績を残していて、これだけタイトル戦の挑戦権を獲得して、挑み続けて、何度も跳ね返され続けての初タイトル獲得は、ファンも思うところがありますね。成績をみて、タイトルをもっていない、獲得したことがないというのがおかしい、棋界の七不思議のひとつでしたからね。本当に喜ばしいことです。おめでとうございます。

その一方で羽生善治竜王がタイトル通算100期がかかっていたこともありますし、そして簡単にいえば応援しない人がいないわけがないという人であることもあり、誰が喜ぶ一方で、悲しむ人が必ず出てしまうところが難しいところです。

豊島将之棋聖、羽生善治竜王、ともに大好きという人も多いと思うので、こういう好きな人同士の戦いというのはどちらが勝っても素直に喜びきれないというのがつらいところですね。

「将棋ってたかがボードゲームでしょ」といわれた時に「そうですね。オリンピックの100メートル決勝も、たかが”かけっこ”ですけどね」と答えた時に考えさせられること

将棋が好きな人は将棋に対してポジティブです。それに対して嫌い人は「たかが将棋」という論調になります。たかがボードゲームにという話は、まさにその通りでボードゲームの一種でしかなく、特別なものでは決してないわけです。ただ、ここで考えなければならないのは、その”たかが”というものこそが、人間が人間として成立するために重要なものであるということです。

先日も「将棋ってたかがボードゲームですよね」といわれた時に「そうですね。オリンピックの100メートル決勝も、たかが”かけっこ”ですけどね」と答えたことがあったわけですが、世界に存在する、人間が作り出したもののほとんどは”たかが”と呼ばれるようなものばかりです。サッカーはたかがボール蹴り、ピアノはたかが楽器、絵画はたかがお絵かきですし、オリンピックにでる人たちはたかが運動をしているだけです。

人間は自分が好きなものを崇高なものして、間接的に自分を崇高なものを支援している崇高な生き物にしがちです。常に自分が好きなものは素晴らしいものであると考え、逆に自分が理解できないものは、下にあるものというスタンスでとらえがちです。しかし、突き詰めていけば、どれもなければ世界が滅ぶのかといえば、そんなことはなく、世界は何も変わりません。大事なのはそれがあることで、人生を豊かなものと感じる人が生まれるという、ただその1点です。

人間が生きていくために必要なものというのは、冷静に考えるとそれほど多くはありません。でも、それだけでは人生がもったいない。ただ、起きて、労働をし、食べて、寝る。これを繰り返すことが人生のすべてというのは、あまりにももったいない。豊かな人生を歩むために、もっとこれを経験したいと思える何かと出会い、それを堪能する時間こそが価値であり、将棋を含め、たかがと呼ばれるすべては、それ自体にそれほど意味があるものではありません。

経済学的な観点からいえば、休暇は生産性を取り戻すための仕事ともいえるわけで、しっかりリフレッシュすることが重要です。そういった意味では、完全に生産性を取り戻せるような休暇の過ごし方のひとつとして、自分に合ったものが見つかれば、それは自分の人生にとっても、社会にとっても良いことであるはずです。

自分なものだけ崇高にし、理解できないものは下にみる。そう考えてしまうと対立を生むだけで何も得なことはありません。みんな好きなものと出会えてよかったね、それをやっていて幸せなら、それでいいじゃないか、だって、それでまた明日から頑張れるんだからというのが、適切な考え方なんじゃないかと思った次第です。

みんな自分が本当に好きになれるものに出会えるといいですね。もちろん将棋はおすすめですけど。