新型コロナウイルスと将棋について

気が付けば新型コロナウイルスが登場し、自粛生活がはじまって1年以上が経過しています。その間、社会は大きな変化をしましたが将棋も同様でした。今日はちょっとそんなことについてのお話です。

将棋の対局やイベントのオンライン化が劇的にすすんだ1年

2020年の春、将棋界は大揺れでした。いろんなイベントが中止、順位戦やタイトル戦なども対応が迫られて、あわや順位戦がなくなるかもといった議論なども真剣にあったほどですので、その時のことを思えば感染者が増えているとはいえ、今年は将棋界は安定して推移しているといえます。

これまでいろいろと議論がされていくなかで、インターネットの活用は将棋界でも検討されていましたが、将棋ウォーズや将棋倶楽部24といった、アプリなどの活用がメインで将棋教室やイベントをオンライン化するというのはまだまだ少数派でしたが、これがこの1年ほどで驚くほどの普及が進みました。そのスピードは驚くほどで、ピンチはチャンスという言葉を表す好例ともいえるような結果です。

これまで長年かけて変えられなかった慣習を、たった1年で多くの人が変えることに同意したわけですから、怪我の功名といえるわけですが、残念ながら興行的にはまだまだうまくいっているとはいえないため、収益面でもっと跳ねるような何かができてくることを、将棋ファンとして望むばかりです。応援というのは精神的なものだけでなく、物心両面でしてこそ文化として残せるわけですから、収益もオンラインで大きく伸びることを期待です。

将棋ファンは新型コロナウイルスの影響で増えた?減った?

オンライン化がすすんだことで、将来的には地方でも問題なく将棋を楽しめる、勉強できる環境が整ってきたことは喜ばしいことです。その一方で、将棋をさす人たちはどうかというとここは非常に微妙な気もします。

まずシンプルにみていてわかるのはこども将棋スクールやこども向け将棋イベントの開催数の減少に加えて、参加者が激減したことです。わたしが参加しているところの多くが、緊急事態宣言などの期間かどうかなどに関わらず、あきらかに参加者が減っています。理由はいろいろありますし、いろいろはお話は聞きますが。新型コロナ影響で将棋をたのしむこどもが減っているのは間違いなさそうです。

では、大人たちはどうかというと、コアなファンはいつの時代も関係なく、隙さえあれば将棋に意識がいきますので、そこらへんは変わっていないように思いますが、ライト~ミドルな層はというと非常に微妙な印象です。ここらへんの層の方たちは、将棋そのものが好きというよりも、将棋を通したつながりなどが好きというところもあるので、イベントやスクール、会合が減ると将棋への関心も一気に減っていくのを感じました。昨年の春ごろから休止し、落ち着いたので秋ごろにみんなにご連絡をすると、反応は以前の半分といった印象です。他の支部の方たちにもいろいろ聞いてみましたが、多少の差はあれど似た反応があり、割合は別としてもマイナスの影響はあったようです。

去っていった人たちは戻ってくるのか?どうやって戻す?

年代を問わず、総じて減った、というのが私を含めた周囲の印象です。そうなると気になるのは今後、新型コロナウイルスが収束して日常が戻ってきた後のことで、去っていった人たちは将棋の世界に戻ってくるのかというところです。元々、去る人が多い将棋界ですので、去っていった人をフォローするという文化はあまりなく、あきらめが良い人が多い印象があります。まあ、今回も普通に考えれば戻ってこないのですが、それでもできれば戻ってきてほしいし、残ってほしいし、もっと好きになってほしいと願ってやまないわけです。そのために将棋好きたちは何をすべきでしょうか。

できることなんてない、まあ、次のブームが来るまで待とう、どうせ去っていった人たちは戻ってこない、というのが、この業界の多数派の意見であることは否めません。わたしも当然そう思うこともあるのですが、、それでも将棋を通したコミュニケーションを続けるということだけは、みんながあきらめずに続けるべきではないかとは思っています。

誰かがやっているから、みんなが楽しそうだから、わたしもやってみよう、一緒にやろうというのが、ほとんどの人の将棋のスタートです。これは、周囲にやっている人がいて、その人とのコミュニケーション回数によって、確率が高まっていくものです。さあ、将棋しよう、ほら楽しそうでしょという、将棋と触れる機会、そうしたコミュニケーションをあきらめずにコアなファンたちが、ライト~ミドルな人たちに行い続けることはこれまで以上にがんばっていってほしいですし、がんばっていきたいと思います。あと、職団戦の再開もこうした意味では重要な気もするので早く再開を期待します。

プロ棋士の対局の見どころのひとつは「苦しんでいるところ」だと思うという話

将棋を指す人だけでなく、観戦主体のいわゆる観る将も増えている昨今、楽しみ方も多様化し始めています。以前であれば棋譜こそが主役であり、主役は将棋オンリーだったわけですが、難しいことはかわらないけど、なんとなく将棋って見ていて文化的に好きという人たちも登場することで、わかりやすい、将棋めしなどのコンテンツも人気を博してきています。ただ、個人的にはこれらもすごい魅力ではあると思いながらも、是非とも推したいのがプロ棋士たちが長時間の対局の末に、順位戦でいえば22時過ぎあたりから頻発することが多い「苦しんでいるところ」です。

大人が暴れるわけでもなく、ただ地味にひたすらに苦しむ姿がみれる場面はなかなかない。プロ棋士の戦いではこれを見ることができる

子どもはとても素直です。露骨に残念な顔もするし、おもしろくなければ怒り出しますし、ふてくされてしまったりもします。でも、大人になるとそうした姿を見せないように、隠す技術を発達させることで、なかなか表立ってそれが表れるシーンはありません。プロ野球などであれば、バットを頬り投げてしまったり、たたきつけたりと、露骨にわかりやすく体をつかって発散しているシーンはありますが、大人の世界であれはありえません。スポーツだから許される行為ですね。仕事中に、提案している内容が落とされそうになったからと言って、提案資料をなげつけて悔しさをあらわにするなんてことは見たこともありません(いるのかもしれませんが。。。)

みんな必死に、苦しさを我慢して、必死に体裁をとりつくろって生きているのが大人の世界です。もちろんそれはプロ棋士たちも一緒ですが、順位戦の深夜など、ひとりごと、脇息にもたれかかってうずくまったり、露骨に肩を落としたりと、本気の大人の苦しんでいる姿を見ることができます。暴れるわけでもありません。声をあらげるわけでもありません。でも、抑えきれないストレスが、もれはじめる瞬間があります。これを見てどう思うかは人によって違うと思いますが、私は勇気づけられます。

苦しんでるのは自分だけじゃない。こんなに苦しいことに耐えている人もいるんだとわかると共感によって元気づけられる。そういった意味で、苦しみながらも耐えているプロ棋士の姿は美しいし、多くの人を元気づけている(と思う)

大人はうそをつきます。不安なのに大丈夫そうにふるまったり、耐えられないのに大丈夫ですといってみたり、充実していないプライベートを、インスタで着飾ってみたりと、世の中はうそに満ち溢れています。それを知っていたとしても、実際にそうした情報を見聞きしていると、自分だけが苦しんでいるアンラッキーな人なのではないかと思う人がいても不思議ではありません。でも、そんな時に目の前に、多大なストレスを受けながらも逃げず、暴れず、耐えている人がいたらやっぱり少なからず元気づけられるんじゃないでしょうか。私だけじゃないんだなと。そういった意味で、うそのない、プロ棋士たちの悶絶する姿はとても美しい。そしてそれを見ることで元気づけられる人がいるはずで、それは将棋の魅力のひとつではないかと思うわけです。

少なくとも私はそう思いますし、涼しい顔して、感情もないようにふるまい、それでただ将棋をやるだけなのであれば、それこそコンピューターと一緒であり、人がみて共感できるものではないでしょう。やはり、プロ棋士は人としての感情、個性があるべきで、それが対局中に画面越しに、公開対局であれば目の前で感じることができたのであれば、コンピューターでは提供できない唯一無二の価値があるはずだと思います。

プロ棋士のひとりごと、苦しんでいる姿、最高のコンテンツだと思っているんですがどうでしょうか。

将棋を好きな人を増やすためにAbemaTVの「楽屋で一局 ペア将棋」的な楽しさをもっと大切にしていくべきではないかと思った話

将棋を指す人が増えないことのひとつに、独特の風土もあるなーと思うことがあり、それについて考えさせられた出来事がありました。 将棋は指せるけどあまりやりたくない、という人はけっこういます。ルールを覚えるのも簡単ではないので、まずそれを覚えただけですごいですよといいたくなるんですが、そういう人たちの話を聞いていると自分も含めていろいろと考えないといけないなと思ったという話です。

アマチュアは別に将棋に勝ったからといって、人としてのランクがあがるわけでもないし、お金が手に入るわけでもない。まして負けても死ぬわけでもない。遊びなんだから別に弱くていいんだけど、それを許さない風土はどこからくるのか

みんなで旅行してトランプだ!UNOだ!となったとき、勝ちにはいくけどそこまで本気で臨む人は皆無で、むしろそういう人がいたら「遊びなんだから本気にならないでよ」と周囲の人は空気を読んでほしいなと思うことがほとんどです。まあまあ、遊びなんだから熱くならないでとなります。じゃあ、みんななぜカードゲームなどでみんな遊ぶのかといえば、それはみんなで何かを一緒にやることが楽しいからですよね。

でも、将棋の場合、へらへら笑っていると怒り出す人がいたりします。真剣にやりなさいと。さらに、本気すぎて負けると怒り出す人もでてきます。みんなでやって楽しかったとは真逆の、真剣に取り組んでいる自分と、そして相手に打ち勝った自分を楽しんでいる人が多いわけです。まあ、そういう人がいるというだけなら、それだけなのですが、難しいなと思うのがそうしたことを、一緒にやる人、周囲の人に強要しがちな風土があることです。もちろん、礼節というのは大切ですが、談笑しながら将棋を指すというのはNGとする場も多く、そして将棋が好きの人ほど、その文化に慣れていて、笑顔などなく、苦悶の表情を浮かべながら、対局にのぞみ、初心者相手にも熱くなり、容赦なく勝ちに行く人たちがいっぱいいます。

これ、文化というか、風土なわけで、だれかの問題というよりも見て学び、自然と受け継がれた結果、できあがったものなわけです。だれも悪気はないところがまた難しいわけで、遊びであれば本当はふざけていていいわけです。笑っていていいわけです。みんなが楽しいのが一番なんですから。でも、真剣さをもとめ、静かに、そして礼節をもった行動をとり、日々、詰め将棋をやりつづけなさいといわれるのが、将棋好きの人たちにとっての常識です。ずっと、この世界を見ている、慣れ浸しんだ身としてはそれが将棋でしょうとも思うわけですが、冷静に考えたら、それってもう遊びじゃないですよね。

ドワンゴの叡王戦やabemaTV将棋トーナメントよりもabemaTVの「楽屋で一局 ペア将棋」が長い目でみたときの将棋界に価値があるのでは?真剣さや礼節もいいけど、楽しさをもっと追及する、笑顔、笑いが多いああいった企画はもっと評価されていいはず

テレビ中継、ネット中継は将棋ファンであれば夢中になってしまうところですが、将棋好きじゃない人からみると解説がないと、何してるかわからない沈黙の多い、暗い、絵的に見ても面白みのない番組です。

そこに一石を投じる、もっと評価されても良さそうな番組があらわれました。(だいぶ前になりますが) それがAbemaTVの「楽屋で一局 ペア将棋」です。

古くはドワンゴさんが頑張ってくれた電王戦や叡王戦、AbemaTV将棋トーナメントもすごくいい企画ですし、これやってくれているだけでドワンゴさんとサイバーエージェントさんは社会貢献している良い企業と声を大にしていいたいのですが、これらは既存の延長戦で、どこまでいっても将棋の枠に収まったものでした。もちろん、コメント機能や解説の工夫などはあるのですが、由緒ある流れの延長であることは否めません。

それに対してabemaTVの「楽屋で一局 ペア将棋」は、はっきりいって斬新です。もう勝ち負けを重視している人が皆無で、それよりもとにかく楽しさ、もはや将棋を知らない人がみても、若者が楽しんでいる姿をみて、よくわからないけど楽しくなるような、そういったいままでの将棋として押し付けられていた「勤勉さ」「勝利至上主義」「笑顔厳禁」などが皆無で、まあジャンルとしてバラエティとなっています。NHKさんも正月特番などでいろいろやっていますが、あそこらへんは将棋をテーマに芸能人のトークや進行を楽しむみたいな作りこみで、私も将棋をやってみたいと思う人が増えるようなものではありません。それに対して 楽屋で一局 をみた、まったく将棋を指さない人も、わたしもみんなで指してみようかなと思わせる”みんなでやる楽しさ”を表現しているすばらしさがあります。

パッケージ、キャスティングもすばらしかったですね。 高見泰地先生、三枚堂達也先生、八代 弥先生、佐々木大地先生の若手4名は、将棋をしらない若い世代がみても、十分おもしろそうなものだったようで、まったく将棋をやる気のない小学生たちがペア将棋をやってみたいといいはじめて、実際にふざけながらやっている姿をみて、こういう楽しさが増えるべきなのになと改めて思ったところであり、またあの番組を作られた人たちのすばらしさは、もっと評価されるべきではと思ったわけです。解説も 木村一基先生、山口恵梨子先生と、これもまたよくマッチした素晴らしいものでした。

あまり将棋に興味をもっていない子供たちが、自分もやってみたいと思うっていうのは、これ確実に正解だと思うわけです。相居飛車のタイトル戦などは、ねじりあいも難しすぎて、多くの子どもたちは見ていても完全にカヤの外です。さらに気迫が前面にですぎていて、子どもたちの興味をひくどころか、将棋って大変そうというイメージを植え付けてしまうということもあり、他のスポーツみたいにみんなでわきあいあいとして、ハイタッチしたりしてなんか楽しそう、あの輪の中に自分もはいってみたいみたいなものがなかったりするので、ペア将棋のああいった、たのしそう、という作りこみってすごい素晴らしいものだと思います。

あれを見た後、どっちが勝ったかを気にする視聴者はそれほど多くはないはずです。将棋が好きじゃない人にこそ、是非見てほしいものであり、また、ああいったものをもっと増やしていき、それを許容する文化ができあがるとみんなにとってより良い将棋になる気がしています。たのしさ、本当に難しいですが、大切にしていきたいものです。

たくさんの人が考える”たのしい”って何だろう?そこから考えるたのしい将棋の話

将棋楽しいですよね。楽しくないと思う人もいるわけですが、それはそれで良いのです。全員が好きになるものなんてありませんもの。みんな自分が楽しいと思うことをやって、それで楽しい時間を過ごせればそれでよいのです。さて、でもそんな将棋好きな人であっても、いや、むしろ将棋好きだからこそわかり、終盤戦の心臓がリアルにどきどきしてくる感じや、血圧があがる感じ、あげくの果てに勝てる将棋をひっくり返されて、終局後、言葉がでないうえに、他のどんなゲームでもあじわえない、どろっとでてくる不快感。あれを味わっていると「なぜこんな思いをしなければならないだろうか」と思う人がいても不思議ではなく、というよりほとんどの将棋好きの人も定期的に思っていることのはずです。

まあ、しばらく時間をおいて体と心を回復させると、次こそは!という思いがより強くなり、将棋沼から抜けられなくなっていくわけですが、率直にいって将棋はつらいです。おもしろいけどつらい。本気の対局などをしようものなら気分転換にはまったくなりません。遊びとわかっていても、途中から本気の自分が顔を出し始めて、終盤では勝っても負けても何が起こるわけでもないのに、なぜか勝ちにいってしまうというのは、将棋好きならわかる話ではないでしょうか。勝ち負けから離れたところで楽しむことが難しい、それが将棋の良いところでもあり、つらいところでもあります。

あんなつらい思いをしたら普通は「将棋ってたのしい」なんて思えるわけもなく、やはり真剣に「楽しめる将棋」について本気で研究する人がいないとまずいのではとも思ったりします。将棋人口って必ず減っていくように仕組みができあがっているのは、こうしたことも遠因となっている気がします。まずお酒飲んでやるとできない、これもつらいですね。みんな大好き将棋ウォーズをお酒を飲んで帰る途中に何局かやったら、連戦連敗で達成率が気が付いたら0になっていた、なんて経験は将棋とお酒の両方を愛している人なら経験があるはずです。お酒飲むと、考え抜くのが難しくなるうえに、しかも盤面全体がまったく見えなくなります。高段者とかになるとここらへん違うんですかね。今度、ぜひ聞いてみたいものです。

ちょっと話はそれましたが、まず「たのしい」ってなんだろうと考えると、人によって違ってきてしまうので世の中のより多くの一般的な人たちに好まれるものというところから考えてみようと思います。そうなると次のような感じになるのかなと。

  1. 心も体もつらくない
  2. みんなで仲良し
  3. 努力がいらない
  4. 好きなコからにもてる
  5. みんなにちやほやされる

わかってはいましたが、軽く書いてみておもったのが、これ、将棋にすべてないものですね。まず、やっている最中に「なんでこんなにつらい思いをしなければならないのか。仕事でもないのに、ああ、もう適当に指しておわらせて楽になりたいな」なんて思いは多少はでてくるくらいつらいですし、それどころか遊びのはずなのに動悸さえするときがあるわけで、心も体もつらいです。負けると、絶望的なショックがやってきます。そうそう。プロ棋士の先生たちの対局でも、対局終了直後にインタビューとか、イベントに顔出したりとかありますが、あれ、改善できないものだろうかなとなんとなく思います。せめて15分休んでからとか、そういう配慮があってもいいんじゃないかなとかは思うわけです。

そしてみんなで仲良くっていうのがありそうでないですね。基本、孤独で、仲間は少しずつ減っていき、オンラインで貴重な将棋仲間と対局を楽しむみたいになりがちです。将棋イベントいくと、こんなに将棋好きな人いるんだ!みたいな気持ちにはなりますが、基本的に内向的な人たちの集まりなので、一方的に話聞くだけで交流とか生まれること皆無ですからね。ここも将棋って悩ましい。

そしてそして仕事も勉強も、いろんなところで、ほとんどの人は努力が嫌いなんですよね。でも、努力しないと楽しいと思えるところまでいくことすらできないというのが将棋の敷居の高さを感じますね。

さらに、せめて、思春期のマジョリティたちに訴求するのであれば、せめてもてる、好きなコにもてるというのはあってほしいが、これもないです。サッカー部とかのほうがもてますね。合コンとかやったとしても、高校、大学でサッカー部やバスケ部にいました、というプロフィールと、将棋にいました、というプロフィールだと、まちがいなくサッカー部やバスケ部に負けます。これはつらい。

いろいろと軽く考えてみると、そもそもなぜ将棋をやるのか?どこが楽しいの?と聞かれた時にこたえられない自分がいるわけで、基本、つらいけど、そこが楽しいという、普通の人たちからは意味がわからないところから話がはじまるのが悲しいです。将棋って楽しいんですけどね。

まず、一般的なたのしい基準で、将棋をたのしいと呼べるものにするためにはどこからはじめるべきなんでしょうか。そもそもでいえば、サッカーとかだって勝ち負けがあって、うまい、へたというのもあり、その結果優劣がつくし、練習もつらいときだってあるはずですよね。そうかんがえると、つらいってだけでは差になっていないんでしょうかね。つらい、は実は普通のこと?じゃあ、すごい差になっているのはなんでしょうね。わかりやすさ、派手さ、目から入ってくるインパクトでしょうか。すごいシュートは、まあだれがみてもすごいですからね。じゃあ、将棋も100メートル先の盤面に向かって駒をなげて、狙いのマスにぴったり落とすとか、そういうのがあるとサッカーに近づくんでしょうか。まあ、やれたらそれは誰が見てもすごいですね。そして、その姿がかっこよければもてることにもつながっていくわけです。フィギュアスケートのトップ選手たち、技術の云々なんてわからない素人がみてもきれいで、なんかすごいですよね。そしてもてます。これ、思春期をとりこむために重要な要素ですから、駒を放つ姿が美しすぎて、Youtubeで再生回数がうなぎのぼり、マネする人があらわれるとか、そういうレベルを目指すとかになるんでしょうか。やはり地味なのが、たのしさを遠ざけてるんですかね。難しいですね。

周りのみんなに聞いてみても、冷静に考えると将棋の何が楽しいのかを説明できる人はいませんでした。先日発売された「教養として将棋」という本に、なぜ将棋はたのしいのかを解説するところがありましたが、あの解説を読んでの感想は、こういう説明にしないといけない時点で、もう一般の人が楽しいと感じるのは不可能なんじゃないかと、悲しさがわいたというものですが、もちろん書籍としても、書かれている先生たちみなさんすばらしいんですが、やっぱり理屈になりがちですよね。将棋って。

言語的な説明や意味なんていらない魅力、これがあるものがやっぱりみんなを魅了するんですよね。インスタやSNSなんてまさにその最たるもので、ちやほやされる、つながれるっていうのは、みんなが楽しいと思うものですが、それに理屈で説明はいらないですからね。”たのしい”ってすごい奥深いですね。

日本将棋連盟が公益社団法人である以上、将棋をビジネスとして展開し、営利を追い求める別組織が新設されるべきなのではと思う話

すべての順位戦も終わり、この時期は将棋界は少しだけ落ち着き、ゆるりとした時間が流れますね。順位戦終盤の誰が上がるのかというところで、見逃せない一戦が続く毎日は楽しくもありますが、こういったゆるやかな時期もまた、楽しくありますね。

さて、今日はみんなご存知の将棋連盟についてですが、こちら、もう将棋と言ったら将棋連盟、というくらい、日本人であれば全員が思うところではないかと思いますが、将棋発展のためを思った時に気になる「公益社団法人」という位置づけについてです。

これはその名の通り、公益、公共、社会といった観点における利益を追求することが義務付けられている組織であるわけですが、そのため営利的な意味合いが強いものは、承認されるためには組織の外に出す必要があったりします。もちろん将棋連盟も、公益社団法人になるために、営利的な意味合いが強いものを外部に譲渡したり、事業としての内容なども調整が必要だったわけです。その結果、公益社団法人になり、大きな目線で見るとメリットは大きく、すばらしい結果になったともいえます。

しかし、その一方で将棋の”営利”、つまりビジネスとしての本気で取り組むことが構造上、どうしたってできない組織となったということであり、いま、将棋界において、ビジネスを本気で展開して、業界全体をけん引する組織がない状態になっています。もちろん、書籍でいえば譲渡先となったマイナビさんは、”将棋もやっている”という表現が適切な状態にあります。また、将棋ウォーズのHEROZさんなどは、AIをプッシュしているいるわけで、上場企業の宿命である、将来の成長性という点では、ゲーム分野においても世界展開を考えると、チェスと囲碁を成長エンジンにしたいというのは、どう考えても致し方ないところであり、決算説明資料をみても将棋をビジネスのメインとして考えているとはいえない状態にあります。つまり、本気で将棋でビジネスを何とかしようと思っている、それがメインの大きな組織がないということになるわけです。

公益を考え、文化として将棋をおしていく将棋連盟に加えて、将棋をビジネスとしてとにかく利益を生み出す、広げていくことを狙う組織があることは、将棋界を今後も継続させていくためには重要なことなのではと思っています。将棋ビジネスというと、将棋バーや、将棋道場、将棋スクールといった労働集約型の規模を拡大させにくいものがほとんどで、どちらかといえば現状の市場規模はそのまま、市場目線でみていくと現状維持を狙ったものが多いのが現状です。成長という観点をもった、人の欲を利用して育っていく資本主義的な事業プレイヤーがいません。

やはり多くの人に愛されるためには、関係者を増やす必要があります。そのためにも将棋に関わると儲かる、といった側面も作り、本気で将棋が好きな人たちが、将棋に集中できるだけの支援ができる環境を作るということも重要だと思います。

日本ではお金の話をするといやな顔をする方も多いですが、お金自体には善悪はありません。善悪をわけるものは、利益を生み出す過程でみんなを満足させたか、だましたりして不満を与えたかといった点です。そしてその利益を何に使うかです。公益社団法人 日本将棋連盟と双璧をなす、利益を追い求め、より市場規模、プレイヤーを増やすための活動を行う株式会社 日本営利将棋連盟、こういったものもあってもいいんじゃないかと思う次第です。

ものすごい儲かれば、職団戦も無料にできるかもしれません。無料で利用できる将棋サロンが各地に作れるかもしれません。それで利用者、ファンが増えれば、スポンサードする企業も増えて、広告費、協賛費ももっと大きなものになるかもしれません。

現状維持を目標にすると、だいたい縮小していくのが世の常です。もっと長く、そして広く、将棋が愛され、続くといいですね。そのためにも営利、考えるの大切な気がします。

将棋のプロ棋士の収入が10倍になったら将棋はもっと普及するはず

先日の朝日杯の藤井聡太七段、絶好調の渡辺明棋王を下しての2連覇、本当にすごかったですね。すごいすぎて周囲では相当な話題になっていたわけですが、テレビ、新聞など一般メディアの取扱量は明らかに減ってきていて、少し寂しい次第です。

渡辺明棋王なんて、去年から絶好調すぎて、細く、きれいに、すぱっと切れるあの将棋がもどってきていて、もっとここも騒がれてもいいのではとも思うんですが、そんな渡辺明棋王との公式戦初対局なわけで、さらに2連覇なわけですから騒ぐポイントはあるはずですが残念ながら地味な報道であったのが残念でなりません。

さて、ではなぜそうなったのかというと、やはりそろそろ飽きられているとまではいかなくとも、みんな慣れてきてしまっているというのが実態ではないでしょうか。藤井聡太七段が強いことに。でも、そんなのは当然お見通しだからこそ、 話題になりそうな記録係がついていたのに、わりとみんなスルーして話題にならないあたり、少し危機感を感じます。

やはりもっと根本、人気のベースを上げることをしないと、これはいけないのではないかと思うわけですが、そのためにあえて理想論からドリルダウンして考えてみたいと思います。まず、将棋のプロ棋士の収入を10倍にしたらどうなるのかです。ゲーム性はおもしろいところがあるわけですが、ルールを知らない人がみても、何をしているかわからないというのが将棋の最高に難しいところです。そこで、わかりやすく”お金”を使えないかというのは、現代社会においてはわりと機能する気もしています。

毎年年初になると、昨年度の獲得賞金ランキングが発表されますが、あれはニュースになりやすく、多くの人の目につきます。しかし、しかしです。あれをみて、どうかというと、将棋を知らない人たちからは「トップでこの金額か」と残念な反応が返ってきます。やはりプロ野球であったり、Youtuberであったりの収入と比べると、地味に見えてしまうのは致し方ないところです。

じゃあ、想像してみましょう。もし、あの単位が一桁多かったらどうか。みんなはどんな発表をするでしょうか。もちろん、大幅に何かがかわるわけではありませんが、少なくとも「将棋って儲かるんだ」というくらいには多くの人に知ってもらえるうえに、リーチできる幅も広がるはずです。

日本人的に考えると、質素倹約が美徳とされがちですが、人間である以上、多くの人が欲をもっていることは間違いはなく、またその欲を隠すことはできてもなくすことはなかなかできません。そうしたものを利用するためにも既存の枠のなかでの収益を確保していくだけでなく、もっと抜本的に、そして飛躍的にプロ棋士の収入が増える仕組みを作ることは、間接的ではありますが将棋普及にプラスに働くのではないでしょうか。

将棋のプロ棋士の収入を10倍にすることを考えると、タイトル戦を増やすであったり、既存のスポンサーの代わりをみつけるといった、オペレーター的な発想では実現は不可能なはずです。時間効率から考えて、同じ作業量で、10倍を手にできるためには、収益構造自体を大きく見直すところからはじめないと絶対に到達は不可能です。こうしたことをいうと、笑う人が多いというのは将棋界の少しだけ残念な点ですが、だれかがこうしたことを思い、目指す、行動していけば、将棋はもっともっと長く、そして広い世界で愛されるものになれるはずだと信じています。収入、やっぱり大切です。

どんな世界でも夢が壁をぶちやぶる原動力になる。将棋をメジャーなポジションに押し上げる夢とはいったんなんだろうか。

世界を変えるような”何か”というのは、そこに誰かの夢がつまっていて、その夢を見る人が多ければ多いほど、成功のインパクトは大きくなります。たとえば、もっと役に情報を手にしたい、もっといろんな人と簡単につながりたい、という夢をかなえたのはインターネットでした。普遍的であり、最大公約数的な世界中の人の夢をかなえる役割を得て、ものすごい速度で、急成長していきました。

夢には大きく2つあり、ひとつは自己実現としての他人の評価を必要としないストイックなもの。もうひとつは他者からの名声や収入によって相対的に良い生活ができるという俗的なものです。将棋はどちらかというと、ストイックな夢のタイプでいまは機能していて、「ただ好きなんです」という人たちの好意、善意によって回っているところが多く、俗物的な人たちをよせつけない小さな市場になっています。

俗物的な人たちというのは、世間一般ではマジョリティーであり、その人たちを取り込まない限り、大きな市場になることはありえません。こちらの路線でわかりやすい夢といえばは「時間」と「お金」です。人生で好きなことをできる時間と、好きなことを好きなだけやれるだけのお金が手に入るのであれば、国も、人種も、年齢も、性別も問わず、多くの人が、その夢にひかれてくるはずです。

野球の世界であれば、プロ野球選手になる=金銭的にも大きなものを手に入れるということを意味します。ただ、プレイヤー数と比較して、夢を実現できた成功者の数が少ないため、”効率”という観点で敬遠する人が多いのも事実ですが、たくさんの人に注目もされて、お金も入る可能性があるということで、一定の支持を得ているのが「プロ野球選手」という形の夢があります。

将棋界はどうかというと、そこにプロ棋士という存在があるわけですが、他の分野と比較して少し地味で、多くの人にちやほやされる、承認欲求を満たすようなものは少なく、また、単純に大金を稼げるのなら目指すというのも非常にまれであり、ほとんどの人は「好きな将棋を仕事にしたい」「将棋の良さを知ってほしい」という、欲の少ない、いうなれば謙虚な人が多く、夢の形としては非常にストイックな人たちのみにしか通用しないものになっています。

ひどい話をいってしまえば、「将棋は好きじゃないけど儲かるみたいだからやります」であったり「将棋ができるとモテるみたいだからやってみようかな」であったりと、そういった俗物的な夢を受け入れられる余地があると、メジャーなポジションは大きく近づきます。子どもも大人も、やはり生物としての本能的に「もてたい」であったり、「楽をしたい」であったりというのは共通してあるわけで、そうした欲も、夢として設定できるような懐の広い何かがあることも重要なのかもしれないと思います。(ただ、これをやると地味だから好きという、静かな趣味としての将棋が好きな人が離れる可能性があるのは難しいところ)

それこそ「プロ棋士の収入を全員2倍にする」「タイトル戦の賞金を3倍にする」といったシンプルな目標や、「将棋ビジネスを手掛けるとお金持ちになれる」「プロ棋士になれたら人生の成功者確定」といった事実など、そうしたものができてくるだけでも、また少し違ってくると思うので、ストイックに、そして謙虚にというだけでなく、より大きく、よりわかりやすい夢の設定というのは重要な施策のひとつだとも思う次第です。人の欲に働きかけるものは、残念ながら非常に強い、というのが世界の事実だからです。そういった俗的なものが好きかといわれると、むしろ個人的には嫌いだったりしますが、普及させたい、広げたい、大きくしたいという場合は、合理的なものとして、そういったものも利用しないといけないという意味でのお話でした。

次の将棋ブームはいつくるのか?

藤井聡太七段の活躍によって近年まれにみる将棋ブームが訪れたのは2017年。勢いは落ちてきたとはいえ、まだまだ将棋ブームが続いていることをうれしく思っている将棋ファンは多いのではいないでしょうか。

しかし、どんなものも栄枯盛衰。羽生善治竜王が巻き起こした以前のブームも、少しずつ下火になったのと同じように、今回も当然、いつかは終わりを迎えます。それはある意味でとても自然なことで、特に悲観するようなことではないわけですが、下火になったのであれば、またその次のブームを起こすため、というよりは、起こるための準備は当然していく必要があります。

ずばり、次の将棋ブームはいつくるのか?ということを考えていくと、これも過去から学ぶとわかりやすく、「とても強い超人的な人があらわれたとき」がこの手のブームのきっかけになります。羽生善治竜王が7冠を達成した時もまさにそうです。そう考えると、やはり、藤井聡太七段が初タイトルをとった時が、次のブームのスタートで、ピークは史上初の8冠達成の時でしょうか。

以前は7大タイトルでしたが、いまは8大タイトルとなっているだけに、網羅をすれば必ず「史上初」というわかりやすいコピーが使えるというのも、非常に魅力的です。いまは若手とベテランのせめぎあいの時期なので、タイトルホルダーも分散してしまい、「とても強い超人的な人」というのが、対外的には存在しないように見えてしまっているのが少しだけ残念なところですね。

ブームというもので一喜一憂するのは少しあれな気もしますが、とはいえ、将棋人口を増やすためには定期的なブームは必ず必要ですし、さらにはブームに頼らない地道な草の根の普及活動もとてもとても重要で、派手さと地味さのコラボレーションで、より将棋界が盛り上がっていくといいですね。次のブーム(藤井七段の初タイトル)、期待したいところです。

「将棋ってたかがボードゲームでしょ」といわれた時に「そうですね。オリンピックの100メートル決勝も、たかが”かけっこ”ですけどね」と答えた時に考えさせられること

将棋が好きな人は将棋に対してポジティブです。それに対して嫌い人は「たかが将棋」という論調になります。たかがボードゲームにという話は、まさにその通りでボードゲームの一種でしかなく、特別なものでは決してないわけです。ただ、ここで考えなければならないのは、その”たかが”というものこそが、人間が人間として成立するために重要なものであるということです。

先日も「将棋ってたかがボードゲームですよね」といわれた時に「そうですね。オリンピックの100メートル決勝も、たかが”かけっこ”ですけどね」と答えたことがあったわけですが、世界に存在する、人間が作り出したもののほとんどは”たかが”と呼ばれるようなものばかりです。サッカーはたかがボール蹴り、ピアノはたかが楽器、絵画はたかがお絵かきですし、オリンピックにでる人たちはたかが運動をしているだけです。

人間は自分が好きなものを崇高なものして、間接的に自分を崇高なものを支援している崇高な生き物にしがちです。常に自分が好きなものは素晴らしいものであると考え、逆に自分が理解できないものは、下にあるものというスタンスでとらえがちです。しかし、突き詰めていけば、どれもなければ世界が滅ぶのかといえば、そんなことはなく、世界は何も変わりません。大事なのはそれがあることで、人生を豊かなものと感じる人が生まれるという、ただその1点です。

人間が生きていくために必要なものというのは、冷静に考えるとそれほど多くはありません。でも、それだけでは人生がもったいない。ただ、起きて、労働をし、食べて、寝る。これを繰り返すことが人生のすべてというのは、あまりにももったいない。豊かな人生を歩むために、もっとこれを経験したいと思える何かと出会い、それを堪能する時間こそが価値であり、将棋を含め、たかがと呼ばれるすべては、それ自体にそれほど意味があるものではありません。

経済学的な観点からいえば、休暇は生産性を取り戻すための仕事ともいえるわけで、しっかりリフレッシュすることが重要です。そういった意味では、完全に生産性を取り戻せるような休暇の過ごし方のひとつとして、自分に合ったものが見つかれば、それは自分の人生にとっても、社会にとっても良いことであるはずです。

自分なものだけ崇高にし、理解できないものは下にみる。そう考えてしまうと対立を生むだけで何も得なことはありません。みんな好きなものと出会えてよかったね、それをやっていて幸せなら、それでいいじゃないか、だって、それでまた明日から頑張れるんだからというのが、適切な考え方なんじゃないかと思った次第です。

みんな自分が本当に好きになれるものに出会えるといいですね。もちろん将棋はおすすめですけど。

永瀬拓矢七段のバナナや大橋貴洸四段のファッションといったような「こだわり」があると将棋に興味がない人に説明しやすくてプロとしてのあるべき姿を考えさせられたという話

将棋のプロといえば、将棋が強いというのはみんなの想像通りですが、それがどれくらいなのかといわれると、将棋好きな一部の人を除けばほとんどの人がわからないはずです。そもそも将棋が好きな人でも、中級者以上にいかないとプロの指し手の意味や価値も、最終盤とかにならなかいぎり、理解できなかったりするわけで、そういった意味で将棋のプロの価値を興味がない人にも説明する材料というのはなかなかなかったりします。

しかも、強さという点でいえば電王戦の影響などもあり「コンピューターのほうが強いんでしょ?」というようなリアクションがでてくることもあり、強さだけでプロの価値を説明しにくい難しい局面に出くわすこともしばしばです。

そんな中で最近、永瀬拓矢七段のバナナをとにかく食べるというシンプルだけでインパクトがある行動、大橋貴洸四段のだれが見て普通じゃないと思えるいかしたファッションは、「普通じゃない」というのを多くの人に説明できる点において、将棋には関係ないかもしれないけれど”プロ”だなと思える要素になっていてがんばってほしいなと思ったという話です。

「対局中、朝も昼も夜もバナナたべるんだよ」というと将棋に関係なく話題になります。普通の人たちにまざっていかしたファッションをした人が映った写真を誰かに見せた時に「誰がプロだと思う?」といえば、きっと見つけてもらえるうえに将棋でなぜこのファッションなのかと話題になります。強さもいいけど、やっぱり話題性、話のタネになるものをもっている人は、みんなにそれ自体で良くも悪くも注目を浴びるわけで、賛否両論が巻き起こると思いますが、そこも含めて「話題にされている時点でプロとして勝ち」とおも思えるわけです。

普通のみため、普通の生活、普通の発言、すべて普通な人というのは害がないんですが、逆に言えば記憶に残らない、どうでもいい人ともいえます。人格的な面でひとクセあるような人は当然いるとしても、それはしゃべって、長く付き合わないとわからないし、そもそも不快な人とはつきあいたくない人というのは多いはずなので、人格面はまじめ、ふつう、謙虚というあたりがいいんだと思います。あんなにまじめなのに、なぜこのファッションなの?話は普通なのに食事をみていると普通じゃないのかな?という、だれも傷つけないあたり、永瀬拓矢七段のバナナや大橋貴洸四段のファッション、将棋界において非常に良い試みにみえます。

プロって強いことは大事ですけど、強いだけならソフトでいいわけで、こういった話題があることも、もっと評価の対象になってくると良いですね。