ついに増田康宏六段に!20歳で六段ってけっこうすごいことなのに藤井聡太七段がいることで霞んでしまうというのが恐ろしい

次代を担うであろうといわれて久しいプロ棋士のひとり、増田康宏五段がついに六段に昇段。非常にめでたいですね。まだ20歳ですからすごいスピードです。でも、つい先日、さらに圧倒的な若さで七段に到達した人がいることで、記録的に霞んでしまうのはなんとも恐ろしいことです。藤井聡太七段、まだ言いなれないですが、あっという間の七段到達。しかも八段への昇段基準も変更されることが検討されているようですし、最年少八段も時間の問題かもしれません。

羽生世代もそうですが、同世代で意識しあって高まったいく、突出した存在によって引っ張られていった結果、異常に強い層の厚い世代っていうのは、どんな競技にも存在します。増田康宏六段にもその一翼を担ってもらえるような存在になってくれることを期待したいですね。最近、発言がおとなしめになってきているのは、ファンとしては少しさみしいところですが。

永瀬拓矢七段のバナナや大橋貴洸四段のファッションといったような「こだわり」があると将棋に興味がない人に説明しやすくてプロとしてのあるべき姿を考えさせられたという話

将棋のプロといえば、将棋が強いというのはみんなの想像通りですが、それがどれくらいなのかといわれると、将棋好きな一部の人を除けばほとんどの人がわからないはずです。そもそも将棋が好きな人でも、中級者以上にいかないとプロの指し手の意味や価値も、最終盤とかにならなかいぎり、理解できなかったりするわけで、そういった意味で将棋のプロの価値を興味がない人にも説明する材料というのはなかなかなかったりします。

しかも、強さという点でいえば電王戦の影響などもあり「コンピューターのほうが強いんでしょ?」というようなリアクションがでてくることもあり、強さだけでプロの価値を説明しにくい難しい局面に出くわすこともしばしばです。

そんな中で最近、永瀬拓矢七段のバナナをとにかく食べるというシンプルだけでインパクトがある行動、大橋貴洸四段のだれが見て普通じゃないと思えるいかしたファッションは、「普通じゃない」というのを多くの人に説明できる点において、将棋には関係ないかもしれないけれど”プロ”だなと思える要素になっていてがんばってほしいなと思ったという話です。

「対局中、朝も昼も夜もバナナたべるんだよ」というと将棋に関係なく話題になります。普通の人たちにまざっていかしたファッションをした人が映った写真を誰かに見せた時に「誰がプロだと思う?」といえば、きっと見つけてもらえるうえに将棋でなぜこのファッションなのかと話題になります。強さもいいけど、やっぱり話題性、話のタネになるものをもっている人は、みんなにそれ自体で良くも悪くも注目を浴びるわけで、賛否両論が巻き起こると思いますが、そこも含めて「話題にされている時点でプロとして勝ち」とおも思えるわけです。

普通のみため、普通の生活、普通の発言、すべて普通な人というのは害がないんですが、逆に言えば記憶に残らない、どうでもいい人ともいえます。人格的な面でひとクセあるような人は当然いるとしても、それはしゃべって、長く付き合わないとわからないし、そもそも不快な人とはつきあいたくない人というのは多いはずなので、人格面はまじめ、ふつう、謙虚というあたりがいいんだと思います。あんなにまじめなのに、なぜこのファッションなの?話は普通なのに食事をみていると普通じゃないのかな?という、だれも傷つけないあたり、永瀬拓矢七段のバナナや大橋貴洸四段のファッション、将棋界において非常に良い試みにみえます。

プロって強いことは大事ですけど、強いだけならソフトでいいわけで、こういった話題があることも、もっと評価の対象になってくると良いですね。

将棋が面白くない!という人はけっこういますがそれは当然のこと。それよりも知らない、わからないという人がいるのは普及としては問題

将棋を面白いと思う人はいます。しかし、残念ではありますが社会全体でみるとそれはマイノリティであり、大多数の人はそうおもってはいません。将棋は面白くない、将棋をやりたいなんて思わないわけです。ただ、そのなかに「知っているけど好きじゃない」という人と「そもそも知らない」という人がいます。知っているけど好きじゃない、はっきりいえば嫌いという人がいるのは当然のことで、どんな競技も種目も科目も学問も趣味も、好きな人もいれば嫌いな人もいます。みんなが同じ感性をもっているわけではありませんので、あわなかったというだけで、その人は自分の感性に合うものが見つけて、より良い人生の時間を楽しんでいけばいいわけです。そもそも将棋という種目は、熱烈なファンであっても連敗がつづき、大スランプに入るとしばらく将棋を見たくないというような心境になることは日常的なことであり、好きな人すらも嫌になる瞬間があるようなものを、感性的に受容できない人が好きなる余地はまったくありません。将棋が好きじゃない人が存在するのは当然ですし、まったく問題ではありません。

問題は「そもそも知らない」という人と「知っているけど好きじゃない」といっているけど、楽しさを理解できるような環境や手続きがそろっていなかっただけの人です。本来、ちゃんと認知、経験を積めば、とても楽しいと思うことができる感性をもっているのに、認知してもらえていない、適切な経験をつめなかったということで、将棋好きにならなかったということ人たちがいることはとても大きな問題です。

ビジネスにおいて良い商品、良いサービスをもっている会社は、探してみるとけっこうあります。ただ、良いものをもっているからといって、たくさん売れているかというとそうでもありません。逆に売れているものが良いものとも限らないというところもあり、これは将棋においても考える必要がある事実です。良い将棋を指したり、良い将棋の世界を作り出していくだけではなく、より効率的により広く認知されることをしないと、”良さ”が存在しないのと同じになってしまうわけです。

そうした点でいうと、知ってもらうためにアニメや映画といった、マス的なアプローチに将棋が登場し、ゲーム性だけでなく、文化的な側面で”なんとなく素敵”という状況が作られていくのは、非常にすばらしいことですね。その上で、そこから興味を持った人のなかから、将棋ファンを作るためには、次の一手が必要になるわけですが、ここは将棋好きな人たちの慣習的、文化的な課題があり、特効薬がないのが難しいところです。

子どもをみているとわかりますが、勝つと楽しいし、ほめられるとうれしいというのが人間です。子どもはそれを露骨に表現します。しかし、表現しないだけで大人だって心のなかは一緒です。しかし、将棋はそのゲーム上、2人のうち1人、つまり50%の確率で楽しい人と、不快になる人が生まれます。チームプレイなどもないので、負けたけどみんなでやって楽しかったということもありません。さらには自分と同じレベルの人がいないコミュニティでは、連戦連敗で、楽しさを生む要素のひとつである”勝利”を永遠に味わえません。興味を持った初心者の人が将棋倶楽部24に登録して、将棋を10局ほど指した状態をイメージすると、わかりやすいと思います。これでは楽しいと思えずやめていくのは当然ともいえます。

子ども将棋スクール、将棋初心者スクールといったものの良い点は、同じレベルの人が一定数以上いる可能性が高く、楽しさを感じるチャンスが生まれやすいことです。そうした場でない限り、初心者の人が将棋を楽しいと思える機会が皆無なのが、今の将棋をとりまく環境になっており、ここをなんとかできる施策は必要なのかもしれません。

将棋を楽しいと思える感性を持っている人に、適切な楽しさを提供できる枠組みができることを願っています。

将棋女子が増えている!? 「女性も将棋を始めたい!」「難しくない?初心者・初級者でも大丈夫?」「将棋好きの女性と交流したい」といった声に応えてくれるもの。

将棋といえば、主に男性がメインというイメージが強かったのですが、最近は藤井聡太六段や羽生善治竜王などがメディアで多く取り上げられているされているせいか、じわじわと将棋女子なるものが増えてきているようですね。しかも、プロの試合観戦をメインとする「観る将」から、自分でもプレーする「指す将」にまわる人々も多いようです。

今回は、将棋が新たな層を獲得していく手助けをしていると思うものを2つほどご紹介したいと思います。

一つは、「ハート将棋」。
以前このブログでも紹介されていますが、見た目がとにかくかわいいですよね。これまでは見た目はプレーする層などの要因から、女性は幼少期から将棋に触れるということがあまりなかったのかなと思います。しかし、この?shogiなら、例えばおじいちゃんがお孫さんと一緒に遊んだりすることもありそうですね。このかわいい将棋セットは今まで無意識に将棋に存在していた性差のようなものを取り払ってくれそうな気がします。

そしてもう一つは、「ショコラトーナメント」。
毎年バレンタイン頃に、初心者・初級者の女性を対象とした将棋大会があるんです。しかも、ただ女性が集まって将棋をするだけではなくて、カフェで、ランチビュッフェ付き。
テレビなどメディアの影響もあって、将棋観戦に興味を持つようになった女性も少なくないので、こうして同じように趣味として将棋が好きな人たちと交流の場を持てることは、彼女たちがその後も将棋を続けやすい環境づくりを手助けしているように思います。

せっかくの将棋という日本の伝統文化が、新たな層をゲットして、さらに続いていくことを期待します。

今や将棋界で超有名棋士となった、藤井聡太六段の影響力

将棋についてほとんど知識が皆無の状態であっても、おそらく藤井聡太六段の名前は聞いたことがあるでしょう。ネットで「将棋 ニュース」と検索してみても、ニュースサイトの多くの記事に藤井聡太六段の名前がみられます。
しかも、試合の様子や結果はもちろん、試合の時の食事、ネクタイなど、将棋以外の部分もネットやテレビで多く取り上げられています。世間の彼に対する関心の高さが伺えますね。

こうした存在ってその業界を盛り上げる、すごく影響力がありますよね。実際、何かを始めるときに、その分野の超有名人に興味を持って、その分野にのめりこんでいくことってよくあるんじゃないかと思います。

将棋も、藤井壮太さんなどのような、超有名棋士、つまりアイコン的存在がいることにより、
将棋の話題に触れる頻度が高まり、将棋に関心を持つようになったという人が多くいるのではないかと思います。
最近では、藤井聡太六段だけでなく、先日1400勝を達成された羽生善治竜王や、ひふみんの愛称でおなじみでバラエティ番組でも大活躍の加藤一二三さんなど、将棋をよく知らなくてもみんながわかる棋士がたくさんいらっしゃいますね。
こうした方を通じて興味をもってもらうことで、将棋界がさらに盛り上がっていくことを期待します。

羽生善治竜王と佐藤天彦名人の名人戦七番勝負がいよいよスタート

本日、4月11日からいよいよ第76期名人戦七番勝負がスタート。今回はこれまでにないプレーオフからの流れもあり、さらに羽生善治竜王の通算タイトル獲得100期目になるかもしれないというところもあって話題が盛りだくさん。注目度が本当に高いですね。羽生善治竜王と佐藤天彦名人の名人タイトルをかけた対局は、しばらく目が離せそうにありません。

しかし、羽生善治竜王を見ていると、心の底から”持っている人”っているんだなと思わされてしまいますね。昨年の永世七冠からの国民栄誉賞というものもそうですが、大事な時にしっかりと盛り上げてくれる、タイミングの良さというか、計算されたかのように物語がつながっていくところとか、偶然というにはなんだか確率がおかしいことが多い気がします。

このまま将棋界がさらに盛り上がっていくといいですね。

将棋ウォーズと将棋倶楽部24における強さの比較を気にする人が多いことでみえてくる、将棋が普及しない根本的な原因となる構造的課題

近年、ネット将棋というと将棋ウォーズがNO1の地位についた感がありますが、不思議なもので将棋倶楽部24こそが本物の将棋指しが集まる本丸であるというような意見、風潮がけっこうあります。そして、決まって多くの人が気にするのが、それぞれの段位・級位の実力差、比較ですね。将棋倶楽部24の10級ってどれくらいの強さなのか、であったり、将棋ウォーズ初段ってどれくらいだろうかといった具合に、とにかく強さの比較がみんな大好きです。みんなやはり、きっと強くなりたいという気持ちが根底にあり、自分が強いのか、強くなれているのか、そういうことに不安があって気にしてしまうんだと思うのですが、それは高みを目指し続けることを目標にしているものとしてはすばらしいことです。ただ、ここで考えなければならないのが「どちらが楽しいか」といった議論がでてこないことです。

野球もサッカーも趣味として楽しんでいる人はたくさんいます。ピアノもそうですし、料理なんかも趣味という人たちはたくさんいて、そのアマチュアの競技人口は将棋のそれを大きく上回ります。こうしたすそ野が広いものの共通点は、「強い」というところを求めて努力をする人もいる一方で、多くは「楽しい」というものを求めている人たちだということです。

プライベートで、趣味としてたのしんでやっているフットサルで、鬼コーチのような人間がいて「やる気あるのか。へたすぎる。練習しろ。しかも毎日」なんていわれた日には、次の日からほとんどの人は参加しないですよね。努力は人生において大事ですが、趣味の世界でそれを強要されると、ほとんどの人は、楽しいものではなくなってしまいます。人生を楽しいものにするための趣味なんですから、それが達成できないなら辞めていくのは当然のことです。

練習しなくてもたまに参加するだけで楽しい。アマチュアリーグに参加して勝ち上がっていくことを目標にしている人もいるけれど、そういう人たちは少数派。これがとても重要なわけです。強さを探求する人が少数派、たのしさを求める人が多数派、これが競技人口が多い種目い共通点のひとつです。

将棋倶楽部24、将棋ウォーズ、同じネット将棋のサービスなのに、不思議とゲーム性が違うところを感じるあたり、面白さの種類が違う気がします。どちらが強いか、それぞれの強さの基準はどれくらいか、といった強さ偏重ではなく、もう少し、努力しない人たちでもおもしろいと思える何かが議論されはじめると、大きく広がる気がします。ただ、そうなると既存のファン層は不満を持つかもしれませんから、すべての人が満足するバランスというのはなかなか難しいですね。

将棋本は数多くあれど戸辺誠七段と永瀬拓矢七段の将棋本が異彩を放ち、その目的を考えると頭が下がってしまう件について

伝統も大切だけど進化するための挑戦も大切です。それは将棋にもいえることで、将棋界全体から考えると、戸辺誠七段と永瀬拓矢七段の書籍の挑戦へのリスペクトをもっとみんながして、こうした挑戦をする人たちを応援すべきなのではという話です。

BMJの将棋部には将棋本が社内に100冊以上ありいろんな書籍を閲覧することができます。初心者や級位者向けから、高段者向けのものまでいろいろとあります。多くの将棋をはじめたばかりの人にとって、詰将棋や次の一手形式の本をのぞけば、多くの将棋本は構成から文章からすべてが難解なものでとっつきづらいことは多くの人が知ることです。

もっと普及のためにもわかりやすい本を出したらいいんじゃないかといったことは、多くの人が思うものの、ルールを覚えようとする超初心者の方向けはある程度、市場があるものの、微妙なラインの人たち向けというのは実は市場そのものが存在していません。

やってみて、おもしろければどんどんやって、あっという間に中級者になる人たちと、ちょっとやってすぐにやめてしまう脱落する人たちがいて、中級者のなかでもさらに上を目指す人たちは頑張って、難解な本になれるために努力をします。その結果、超初心者向けと、中級者~上級者向けという二極化する市場に落ち着くようになっています。

そうした中で戸辺誠七段と永瀬拓矢七段の2冊の本は、これまでなかった層に対して、また将棋本を敬遠しがちな層に向けた、取り組みがいっぱい盛り込まれていて、普及的な目線での意識の高さが垣間見えるものになっています。

◆戸辺誠七段の挑戦的な書籍
将棋DVD 攻めて強くなる戸辺流中飛車
*DVD付きの書籍

◆永瀬拓矢七段の挑戦的な書籍
永瀬流負けない将棋

この2冊、著者のお二人はもとより、企画、編集等にかかわった人たちにも、もっと世の中のリスペクトが集まってもいいはずというのが、当部の総意です。戸部先生の本にいたっては、ありそうでなかったDVD付き。そしてDVDの質の高さにも驚き、値段から考えると安すぎる、もっと売れるべきと声を大にしていいたいものです。この2つの書籍、どちらも普通に書くこともできたはずのところを、これまで取り込めていなかった層に対する訴求をねらって新しい取り組みが随所にあふれています。ずっと将棋界にいて、昔からの”将棋界の常識”のようなものが刷り込まれている人ほど、外部から見た時の問題点は、通常は気が付きにくいものです。それを内部にいながら感じ、なんとかしようとする姿勢を感じることができる2冊の将棋本です。この2冊に関わった人たちは、もっと称賛されるべきだと思うわけです。そのためにぜひもっと売れてほしい。一般的な将棋本が読むのが疲れる、なんかいやだという人たちにぜひ読んでもらいです。

侍”(ざむらい)なんかも、それをイベント的な側面からやっているわけで、こうした新しい挑戦をする人たちが、もっと報われるような仕組みが作れるといいですね。

将棋・順位戦のA級プレーオフがかつてない面白い展開で目が離せない展開に

例年であれば名人挑戦者が決まっているころですが、今年のA級順位戦は6名によるプレーオフという史上初の事態というすごいことになりました。藤井聡太六段の活躍で、業界全体として盛り上がりを見せるなかで、このプレーオフの開催が起こるあたり、将棋界、しっかりもってますね。

A級順位戦でトップをひた走ってきた豊島将之八段と久保利明王将が初戦で対戦という、なんとも考えさせられるところからのスタートで、見事に豊島将之八段が勝利。その後、佐藤康光九段と広瀬章人八段を破り、3連勝で勢いを取り戻しつつある豊島将之八段。3月18日に、次の対戦相手となる羽生善治竜王との対戦ということで、3月いっぱいはまだまだ熱い対局で楽しませてくれそうです。

今年の将棋・名人戦の挑戦者がだれになるのか、今から楽しみですね。

コンピューターが強くなってもプロ棋士の存在価値はゆるがない。本当の脅威は強いアマチュアの将棋指し

電王戦で盛り上がった人間VSコンピューターという構図は、AIの進化によってある程度、終着点が見えてきて、まあやっぱりコンピューターって強いですねというところが結論になってきた感があります。ただ、一時期騒がれた話のひとつに「AIが強くなったらプロ棋士は存在価値がなくなるんじゃないか」という論争については、いまだに話は続ているところがありますが、コンピューターの進化はプロ棋士の存在を脅かすものでは決してない、というのが個人的に思うところです。

たとえばオリンピックではフルマラソンの試合が行われていますが、自動車のほうが早いんだから、オリンピックのマラソン選手には価値なんてないという人はいません。そもそも、人と人の戦いを通して、懸命に努力する姿を見て楽しみ、勝ってくれたらもっとうれしい、というのがこの手の観戦者の心理です。仮に、オリンピックの試合に、世界最速の自動車が出場し、他の選手たちを圧倒して勝ったとします。その時、その自動車を運転している人は称賛を受けられるでしょうか。たとえば、自動車が登場したばかりの頃であれば、馬車との競争でどちらが早いのかというレースには、多くの人は興味を持ったかもしれません。それは黎明期の自動車が遅いものであり、馬車の方が早いと思っていた人が多かったためです。しかし、自動車というものが進化し、自動車は早いのが当たり前と多くの人が知った後はどうでしょうか。馬と自動車が戦うなんて、そもそもその試合がおかしいとなるでしょう。馬がかわいそう、自動車に乗っている人は卑怯などという論調すら、でてくるのではないでしょうか。

まず、コンピューターと人が戦えば、コンピュータは勝ちます。最終的にはそうなるのは必然です。しかし、それが当たり前になった時、この両者を対戦させようとすること自体に興味を持つものはいなくなり、それを実施したところで誰も盛り上がることはないはずです。黎明期にある”どういう結果がでるかわからない”という状況の一瞬だけ、成立する魅力といえます。

プロというのは、見る人たちが存在し、その人たちがそれを続けてほしいと応援することで、存在が成立します。応援は資金に代わり、プロが生きていくために、そしてその活動に専念するための環境となっていくわけです。ただ強いだけで、プロとして成立するわけでは決してありません。プロの人のひたむきな活動、努力する姿を見て、自分を含めた人間の可能性を感じたいから、つい観戦してしまうのです。ただ、強いというだけでコンピューターがプロ棋士の存在を脅かすものになるというのは、構造的に考えていけばありえないことです。

しかし、一方で昨今、急速に平均値が上がってきている、プロに近い実力を持つ人間。高いレベルのアマチュア将棋指しの人たちの存在は、コンピューターのそれとは違い、明らかにプロ棋士の皆さんにとっては脅威です。プロとして将棋に専念しているわけでもないのに、より効率的に研究、努力をして、アマチュアの人がプロ棋士たちを破り始めたら、その時はプロとしての存在価値はなくなっていくに違いありません。将棋という点から考えると、最後の敵は、最終的に同じ人間であり、コンピューターはそもそも敵ではありません。